瀧井敬子 著
秋蔦の色の濃きに黒斑入りたるヴァイオリンーー島崎藤村
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森鷗外、幸田露伴、島崎藤村、夏目漱石、寺田寅彦、永井荷風。言わずと知れた文豪たち。彼らは日本の西洋音楽黎明期における、ディープなクラシック音楽狂でもあった。
個人的には、もっとも印象的なのはやはり夏目漱石のヴァイオリンだ。「吾輩は猫である」の先生がヴァイオリンを「ブーブーやって」いたり、客人との話題に弦楽合奏のことがのぼった場面は印象的だし、子息の純一がプロのヴァイオリニストであることは我がコンサートのトークにおける「鉄板ネタ」にもしていた。また、大学を卒業してからしばらく企画していた試演会で「毎回バッハ一曲と邦人作品一曲」をノルマとし、数回目で幸田延(露伴の妹でヴァイオリニスト、本書にも詳しい)作曲のソナタに挑戦したこともある。
著者の瀧井敬子氏は「(東京芸術大学の)新しい奏楽堂のオープニング・コンサートのプログラム冊子に、私は、『漱石は、奏楽堂をこう見た!』というエッセイを書いた。このころから、自分がこれまで親しんできた文学書を、日本における洋楽の受容史という観点から読み返すようになった」という。
森鷗外がドイツ文化に傾倒していたことは作品や子供たちの名前からも伺えるが、彼が大正二年の時点でグルックのオペラ「オルフェオとエウリディーチェ」の日本語上演のために二年をかけて翻訳に取り組んでいたことは初耳だった。鷗外はドイツ留学中の五年間に数十回はオペラ観劇に出かけていたという。しかし、あの偉大なる鷗外も、今日の音楽関係者であれば必ず最初に確認するような「エディションの違い」に気付かず苦労したという話には、黎明期ならではの時代背景が生々しく感じとれる。
幸田露伴の二人のヴァイオリニストの妹、延と幸のエピソードは比較的有名な話だと思うが、輝かしい経歴の幸田延の陰に橘糸重という女流ピアニストがあり、島崎藤村とのスキャンダルに巻き込まれたり、
身にせまるのろひの声よあざけりよいづこまでとか我をおふらむ
と和歌に詠むほど批評(内容が「今も昔も」と思わされる)に追い詰められていた。
その島崎藤村は明治三十年に東京音楽学校の専科生となっている。彼の『落梅集』には、シューベルトのメロディに藤村がつけた詩の楽譜も掲載されているそうだ。この楽譜にはちょっとした印刷ミスがあり、面白い。
漱石と寺田寅彦に関しては「吾輩は猫である」そのままのような関係で、漱石は寒月君のモデルである寺田寅彦を通して音楽に触れたらしい。その寺田寅彦は、高校生のときに物理の田丸卓郎教授を尋ねた時、「物理教室所蔵の標本」(ヴァイオリンが物理の教材になるのか。少しピタゴラスを思わせる)であるヴァイオリンで《君が代》を弾いてもらってヴァイオリンに魅了され、借金してまで楽器を購入するに至る。
さて時代は過ぎて昭和十三年に、永井荷風がオペラ《葛飾情話》を書き公演も成功裡に終わる。荷風は千秋楽の日、「これで上田(敏)先生、鷗外先生の夢が実現できた」、と語ったらしい。
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今やビジネスとしては難しい時代になったものの、毎月のようにどこかしらで公演が行われている「オペラ」。《夕鶴》の團伊玖磨、《沈黙》の松村禎三、「昭和三部作」の三枝成彰のように、和製オペラに名作を残す作曲家も数多い。
日本のオペラがここに至るまでに、知られざるどころか文学作品だけで知らぬ者はないような文豪たちの「日本に西洋音楽を、オペラを」という熱い思いが存在した。それは「漱石は、日本の皮相な『近代』にきわめて悲観的であった。日本はどんどん悪い方向に向かっている、社会の役には立たない『趣味』こそ人間らしい生活の証しになる、と彼は考えていたのである(本文より)」といった、音楽を通して、急激に近代化した当時の日本をよりよくしようという革命だったのではないかと思う。
(2021/04/12-15)
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