小沼純一『無伴奏 イザイ、バッハ、そしてフィドルの記憶へ』アルテスパブリッシング,2008年
ーーひとりでありつづけることをひきうけるためにーー197頁。
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去年図書館で発見し、独特の詩的な文体で語られる、我が最も愛する音楽についての語り口に惹かれて購入したものを久しぶりに出してきた。
読み返すというより、本書の参考文献一覧が当初の目的だった。さほど多くない参考文献のほとんどは英語とフランス語の文献で、独特の文体もフランス語的なのかもと思うと納得した。
改めて読み返すと、これはベルギーのヴァイオリンの名手、ウジューヌ・イザイの一つの伝記である。
著者が「かくいうわたし自身、かつてはけっして愛聴などしていなかった。気にはなっても、とっつきにくいものにはちがいなかった。105頁」という、イザイの無伴奏ヴァイオリンソナタ全六曲。
その音楽性の正体を、楽曲分析完結には交えつつ、むしろ、無伴奏ヴァイオリンという、ピアノやギター独奏と異なる孤独なものとしてそこに「ある」理由を、心のありようから考えていく。
「ギターが、『ひとりのオーケストラ』とベルリオーズに言わしめた、その『ひとり』ゆえの立体性が、逆に、ヴァイオリンの『ソロ=ひとり=孤独』性を消してしまうのだ。編曲が照らしだす、作品としての『別』の側面は、たしかにある。あるけれども、ギター編曲は、ヴァイオリン・ソロのありようとは、とても遠いものとなっている。193頁」
先日読了したシュレーダーの著書のようなヴァイオリンの専門書では、ヴァイオリン独奏を「まずバスありき」で語ることが少なくない。この「編曲法・分析法」も、ついつい夢中になるポイントではあるのだが、
ーーひとりでありつづけることをひきうけるためにーー197頁。
この言い回しが、やはりとても好きだ。
(2021/04/30)
#読書日記